- 大阪府高槻を中心とする地震について
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2018.07.07 Saturday
大阪北部地震 活動報告
まず初めに、この度2018年6月18日に起きた、大阪府での地震で、家の倒壊等で被害に遭われた被災地の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
私達「個人ボランティア活動家集団 ブルーシート」は、二人の副代表を置いています。
山口ひろとしと角田ケーナです。
二人はもう15年ほどの音楽活動続けています。
2010年からは二人でユニットを組んで「山とケ」の名称で活動もしています。
その「山とケ」が、ライブ活動の一環として2018年6月29日から7月3日にかけて、大阪ツアーを計画していました。
ライブは大阪府高槻市と大阪市内の二本。
そんなライブが2週間後に迫った6月18日午前7時58分、大阪府北部を中心とする震度6、マグニチュード6.1の地震が発生したのです。
詳細が明らかになると、震源は大阪府高槻市と発表され、この時点で高槻ライブの開催はあきらめなければならないと覚悟しました。 と同時に、ボランティアとして何か出来ることはないか?を考えていました。
そんな時、神戸の活動仲間である山縣さんから連絡が入ったのです。彼は阪神大震災の被災者でありながら、ボランティア活動に身を投じていて、私たちも参加している、神戸市東灘区での慰霊祭を、毎年実施しています。
彼の話はこうでした。
『家内の母親が被災して飲み水に困っていると連絡があった』
当事、関東での報道では「すでに水道はほぼ復旧し、今も断水している地域では、小学校等の拠点で自衛隊による支援活動が行われている」と報じられていました。
『水は解決しているのでは?』
自宅のテレビを見ながら私はそう聞きました。
そんな私の問いに、彼はやや苛立ちを見せながら
『老人や障害のある人、夫婦共働きの家庭は水をもらいに行く方法がないんです』と答えたのです。
そう、これは私達が被災地でいつも味わうジレンマなのです。
報道される「ほぼ復旧」や「ここは最大の被災地」などの中に、必ず、どこかに取り残されている、「被災弱者」や「隠れた被災地」というものがあるのです。
山縣さんからの電話を受け、やはり私たちブルー・シートは、そんな「少数の被災者」に向けて、私たちは動き出すことを決めました。
ごく、小さな活動とも言えるでしょうが、私達の活動は被災地全体や全ての被災者に向けての行動ではありません。
しかし、一人さえ救おうとしない活動は、すべてを救うことにはならない、とも思っています。
2リットルボトルの飲料水の公募を始めると、アッと言う間に手を上げる仲間がありました。
今回もまた「山とケ」の音楽仲間であり、岩手県田野畑村で我々が行っていた「ソングオブヘヴン」というイベントの出演者でもある、ミュージシャンたちが、力を発揮しました。
緊急性が高かったので、水の提供者から、山縣さんへ送ってもらい、山縣さん自ら、高槻まで自力で運搬し、配布してくれました。
その水を受け取った被災者が、また他の、水を必要とする被災者に配って…少しずつ分配され、数十件の要請に対応出来たという報告を貰いました。
結局「山とケ」の大阪での二本のライブも実施可能となり、ブルー・シート代表である私(角田四郎)と私の妻(角田瑞乃)、山口ひろとし、角田ケーナ両副代表と、その他女性ボランティアを含め、計5名で6月29日より数日間、大阪に滞在しました。
大阪では、高槻の現地視察も行いました。
報道ではほぼ復旧したと聞いていましたが、瓦屋根にブルーシートを被せただけの家が点在し、修理されないままの生活が続いていました。
道路や水道、ガスが復旧しても被災を体験した人々には深い心のキズは残ります。
さらに、滞在二日目の午前には高槻市の民家の中で震度3の余震を体験しました。
私たちが滞在中、ずっと案内をしてくれていた現地の若者は発しました。
「怖いっす!僕でもこの余震がめっちゃ怖いんです。冷や汗がジワーッとでます。今もです」
一人暮らしの高齢者や障害を持つ方などの心境はどんなものなのだろうか?
復旧とか復興とかいう言葉の中に「被災者個人や心の問題は含まれていない」ということを知って戴きたいです。
そして私達の活動は、それら被災者個人や被災者の心に向けたもので有りたいと思います。
それがどんなにちっぽけであるとしても…!
個人ボランティア集団ブルー・シート
代表 角田 四郎
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(写真)産経読んで見ニュース
- ボランティア活動の難しさ
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2017.07.31 Monday
北九州地方で大きな豪雨災害が起こってから3週間が過ぎました。
私達ブルーシートも、活動資金作りの募金活動を始めていますが、まだ現地派遣のメドも経たない情況です。
支援物資を送るにも、やみくもに物資を決めたり、現地社協に発送しても役立つのは僅です。
現地での分類作業や配付の大変さは、私達の過去の経験から良くわかっています。
本来ならいち早く現地に入り活動拠点を作って、現地で必要な物を情報発信したり、現地活動家の受け入れ態勢を作り、募集を始めるのが最善です。
それがそうは簡単に出来ないのがボランティア活動の難しさと言えるでしょう。
私達も資金調達活動と平行して、現地或いはその近くに実家や友人を持つ人材を探しています。
そちらから活動して下さる人が有れば、拠点が出来る前でも物資配付が可能になると考えています。
名乗りを挙げて下さる方を求めています。
現地に向かう方へ
単身で現地に向かおうとするボランティア活動者もあるでしょう。その決意や行動力には敬意をはらいます。
ただ、よく言われている自己管理等とは別に、理解しておかなければならないことも多いのです。
現地の社会福祉協議会等に登録して、その指示に従って活動することになりますから、必ずしも自身のやりたい活動が出来るわけではありません。物資倉庫でひたすら分類作業に明け暮れ、被災者とは一度もふれ合う機会がなかったという不満も耳にします。
ボランティア団体などに登録して現地入りしても同様のことが起こります。
もちろん、それは当然のことで、大きな事故や怪我が起こりうる活動においては、責任の所在が難しくなってくるということもあり、ボランティアには制限された活動しか許されない、というのは、仕方ない事です。
それを避けるには、その人が出発前に居住地の社会福祉協議会にボランティア登録を済ませてから現地に向かうことです。
ただし、今度は活動場所を自分で探さなければなりません。
これは、ことの他苦労が伴います。自分は善意で訪れているのですが、被災者には猜疑心で見られることも多いのです。
「ボランティアは嫌いだ」「帰れ!」と罵倒されることもしばしばです。
気持ちが折れそうになりますが、そこで被災者側に立って考えて下さい。被災者は悲しくもあり、遣りきれない思いで被災を受け止めている人々なのです。イライラも募らせています、ストレスで爆発しそうな人たちなのです。
私達の活動心得の一つに「ボランティアは被災者のサンドバックになれ」と伝えています。「帰れ!」と言われて腹立たしく思うのではなく、その言葉に被災という現実の重さを理解して下さい。
私にも、泣きながら被災地をさ迷った経験があります。少なからず。
傷付いた被災者に寄り添う活動を目指すのなら、被災者に叩かれ蹴られしながら少し被災の苦しみを分けてもらってから、本当のボランティア活動を始めましょう!
私達ブルーシートの活動の中で得られた教訓や心得を紹介して置きましょう。
「ボランティアなんて、たかが縁の下の力なしだと心得よう」
「百人の被災者には百人以上のボランティアを必要とする」
「私が批判的な人であっても、そんな人が必要な被災者がいる」
「被災地行政を責めるな!彼等もまた被災者なのだ」
「ボランティアは被災者のサンドバックになれ!」
活動心得
「前に出ず」
「押しつけず」
「あきらめず」
「何も求めず」
「そっと側に立つ」
よく吟味して活動の足にしていただければ幸いです。
物資をおくる活動の注意点
物資は大変重要な支援です。しかし、何を送るか?何処へ送るか?誰に送るか?を熟慮しない限り、繁忙な被災地行政の倉庫の奧に眠ってしまう結果にもなりかねません。
最低でも守って欲しいのは、雑多な物資の混載段ボールは送らないで下さい。最大でも三種類以下に絞って梱包して下さい。できれば一物資一梱包が理想です。
さらに段ボール箱外側の上面と側面に中の物資名を明記して下さい。
こうした送る側のチョットした配慮が結果的には、物資が早く被災者に届くことになります。
ボランティア活動に手遅れはありません。
大災害の被災地復興はとてつもない時間を要するものです。
むしろ混乱する発生直後より、多くの人達が忘れ去った頃の方が大切な活動もあります。
心ある方の今後の活動に期待します。ブルー・シート代表
角田四郎
- 九州北部、支援
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2017.07.10 Mondayみなさん、こんにちは。
昨年の熊本の震災に続き、九州北部の豪雨で被害に遭われた九州他方の方々に心よりお見舞い申し上げます。
私たち災害ボランティア、ブルー・シートとしても、何かお手伝いできることがあればと考えているところです。
できればすぐにでも東京から現地にも赴き、現場の声を皆さんにお届けしたいとも考えていますが、あくまで個人ボランティアなので活動には限度があります。
今の時点で最も現実的な手段としては、また、後方支援というかたちで、タオルを集めて現地へ送る、という方法があります。
そしてまずは、義援金を集めたいと思います。
ご協力いただける方は、以下に振込をお願い致します。
同時にタオルも集めたいと思います。
現地の断水状況などが不明ですが、昨年の岩手県岩泉の被害状況と照らし合わせてみて、タオルはいくつあっても困らない状況であることは変わらないと思いますので。
なお、義援金、タオルをお送りいただける方は、必ず事前にメールフォームより御一報いただきますよう、宜しくお願いします。
メールフォーム
■義援金について■
店番 00八(ゼロゼロハチ)
郵便局記号・口座番号
10090-54711951 「ブルーシート」まで
個人ボランティア集団『ブルー・シート』
メンバー一同
- 台風10号豪雨災害被災地訪問記〔8.最終回〕
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2017.06.14 Wednesday
我々が宿泊した羅賀荘も津波に襲われ4階の床まで波が達したホテルである。
津波災害活動中には、幾度も目にした羅賀荘は、三回まで全ての窓は型枠からもぎ取られ、柱部分だけがむきだしになった、廃屋同然の姿を晒していた。
しかし、6年の歳月が過ぎ、今はリアス海岸と太平洋を一望する立派な観光ホテルとして再興を遂げている。
無惨さばかりが目立つ岩泉の現状ではあるが、いつか必ず岩泉は復活するのだ。被災地の一人一人がそれを信じて欲しいと願うばかりである。
最終日となる27日も岩泉町小本地区を訪問し、津波災害時からsong of heavenの支援、今度の豪雨災害でもブルーシートのサポートを引き受けてくれた三浦新聞店や、きのこ会社を訪ねた。新聞屋さんでは「また、世話になりました」とタオル配付を手伝って戴いた礼を伝える副代表の圭奈を、抱き締めるように迎えたおばさんは「また、こんなにお世話になって…小本の人は皆ブルーシートに感謝してますよ」といつまでも手を握りしめていた。
かつて、キクラゲ専門の生産会社だった知り合いは、会社の全てを豪雨災害で失い、それでも先週から業種を変え、自動車部品の下請け業を立ち上げたのだと頑張っておられた。被災時には地区の自主避難所を運営し物資をかき集めて配付したと語り、その中に大量のタオルがあったのを記憶されていた。
誰かが小本から運んできたものと記憶されていたので、それが我々の届けたタオルであったのに違いない。
「どこかで繋がっているんだなぁ」と互いを称えあったり、驚いたりもした。
最後の夜は「山とケ」の出演するライブがあった。
この活動報告の中に音楽ライブの話は違和感を感じる方もあるかもしれない。実は同行した私もこのライブに参加するまではそう思っていた。
行ってみて驚いた。
岩泉の町から2キロほども山中に分け入った、辺りには一軒の家もない作業木屋である。近隣の音楽好きの若者グループが次々に舞台に立ち、思いのたけを叫ぶ姿があった。誰も被災や災害について語るわけでもなく、それを歌いもしない。
だが、ここは今だ傷付いた被災地である。そんな環境の中で音楽を奏でて、思いを吐き出す場所など在るはずがないのだ。
だからこそ、彼らは熊が出そうな山中の小屋で叫んでいる。
このライブに「山とケ」を誘ってくれたのはsong of heavenで音響を担当してくれたK氏である。彼もまた、今回の台風災害の被災者であり、孤立した自分の集落で先頭にたって人を助け、小学校の校庭に『SOS』の文字を書いて自衛隊ヘリを誘導、怪我人、病人搬送を上手に誘導した、勇敢な男性だ。
このライブが、K氏の企画・主催したものだと知った時、その意味深さを思い知った。
復興の遅れている岩泉ではある。先行きの不透明さも確かにある。
しかし、そんな中でこのライブが教えてくれたのは、岩泉の底力が動き出していると言うことだった。
「山とケ」がステージで叫んだ!『生きて行こ〜ォ』今度はそこに居た全ての若者が腕を天に突き上げてシャウトした『生きてゆこーー!』
おわり
代表 角田四郎
- 台風10号豪雨災害被災地訪問記〔7〕
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2017.06.14 Wednesday
国から激甚災害に指定されると、被災自治体には特別予算が付けられ、復興の経済的負担は減少する。
ところが、現実にその予算を執行するためには、平常時の予算執行以上に手続きは煩雑である。
加えて、国に変わって予算の分配や申請を受け付ける県などの上部機関でも、未経験な事業であったり、未熟な職員が実施にあたることになる。
一つの予算申請に対し、その申請の受け付けさえ速やかに実施されず、受け付け後も、審査や会議や見当会議やと、行政の煩雑なシステムの中でたらい回しにさらされてしまう。
粗っぽい言い方であるが、緊急対応の筈の激甚災害予算による復旧工事は、中々本格化されないのが被災地の常なのである。
統計では900人が孤立状態となり、死者は9人だったとされているが、この統計は岩泉中心地から離れた山間部集落の孤立人数をカウントしたものであって、現実には中心街さえも、盛岡や宮古市、久慈市と言った主要都市から隔絶されていたのである。現実を過小評価することで災害規模を歪曲し、復興予算を削減しようとする政府行政の手法がないとは言えないのだ。
訪問してわかる、復興の歩みの遅さにイラつきを覚えた。
その遅れが、被災者のみならず岩泉全体の復興テンションを下げてしまう。再興目処の立たない被災者の中から、生き甲斐さえ萎えさせてしまうのである。
こうした問題は社会福祉部所やボランティア活動だけでは解決できるものではない。
いや、むしろ復興の遅れなどが生み出す沈滞ムードこそが福祉事業やボランティア活動の成果を無力にしてしまう危険さえあるのだ。
「災害関連死」なんと、いやな言葉だろう。被災者が仮設住宅に入居したと言うことは、家屋をなくした人が安全な生活を取り戻したと言うことではない。
災害後の孤独死や心的外傷の発症は、圧倒的に仮設住宅で発生しているのが現実である。
復興のあゆみの遅さが気になる岩泉の印象であった。期間中は、知り合いの家にお世話になり、一泊だけ、田野畑村にあるホテル「羅賀荘」に宿泊した。
この地を知って10年になる我々も、「羅賀荘」に宿泊するのは、初めてのことである。
短期滞在とはいえ、あいさつ周りなどでスケジュールが詰め詰めだったので、疲労の蓄積を避けたかった。
最後の夜には、タオル配付で活躍してもらった、ブルーシートの田野畑メンバーに岩泉メンバーも加わって慰安会兼活動反省会を開催した。結果、岩泉メンバーが口にした「ブルーシートって、慈悲深いですが、思慮深くはないですよね!」の名言が反省会の総括となってしまった(笑)
そして、誰もその言葉を思慮深く反省することもなく眠りについたのである。つづく
代表 角田四郎
- 台風10号豪雨災害被災地訪問記〔6〕
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2017.06.08 Thursday
(前述が長くなってしまいましたが、
ここからが実際に訪問した際の記述となります)
貧困ボランティア「ブルーシート」は、半年が流れた17年の春になって、メンバーも個人資金を準備出来つつあった。岩泉に「行かないわけにはいかない」共通の思いが日程調整へと動いた。
その時、岩泉の某氏から、5月27日に岩泉でライブがありますが「山とケ」さん来られるなら出てくださいと誘いがあった。
その日を絡めての日取りが決まった。song of heavenを10回開催し、最終回を打ち上げ、もう、この道を走ることはないだろうと思った東北道を、私と妻、そして「山とケ(山口とケーナ)の四人は複雑な心境を隠して走りつづけた。
盛岡南インターで高速道路を降り、走り馴れた国道455号小本街道に入る。盛岡から岩泉に通じる唯一の国道である。岩泉まで約80キロの険しい峠道である。災害時には、最後まで復旧工事が遅れた道でもある。
「早坂トンネル」を抜けると岩泉町のエリアに入る。
トンネルを抜けると景色は一変した。被災の現実が網膜に無理矢理映り 込み、旅気分は失われた。
▼被害状況を撮影
報道の映像や新聞の写真で良く分かっていても、被災地に足を踏み入れると必ず感じる事がある。「アー!被災したんだ」
小本街道はずっと小本川に沿って走る。だから、ずっと豪雨災害の被災地が続く、まるで被災街道であった。
「あー!」とか「わー!」という会話にもならない感嘆符だけが車内に響く。町の中心地に近づくにつれ、「あの人この辺の人だけど、大丈夫だったのかな?」などと具体的な心配の声が上がる。
我々に流れた1 0年の重味がのし掛かる。いつの間にか、あちこちに友人知人が住む馴染みの土地になっているのだ。
普通、被災地に始めて来ると、その町の被災前の姿は殆どわからない。しかし、ここ岩泉災害被災地は被災前の姿を私達は鮮明に知っているのだ。だからこそ、今、瞼に映る現実は悲しすぎる。重過ぎるのだ。
仮復旧工事を終えただけの箇所を何度も何度も通り抜ける。
やがて、臨時信号機が設置された一車線規制の箇所に来た。「佐々木さんが動画レポートしてくれた場所だ!えっ、あの頃と何も変わってないのか?」
そのレポートとは、田野畑メンバーがタオル配付活動中に報告してくれたものである。すでに9ヶ月が過ぎている。
見てきた集落ごとの姿、道路復旧工事の様子。
それは、ほとんど被災当時そのままの姿であった。
全国的には、すでに忘れ去られた、災害現場の深刻な姿は、私達に強烈な何かを叩き付けていたのた。
アポイントなしで岩泉町町長に会いに行った。「お〜ぉ!やっと来たなぁ」と言いたそうな表情で、町長室に迎え入れられた。
「我々は伊達町長のお顔をテレビで拝見しておりましたよ!」
song of heaven開催当初からの知人であり、津波災害の活動をとうして友人としての付き合いになっている人である。気さくな会話から真剣な今後の対策まで話は及んだ。津波災害と豪雨災害の二連発の巨大災害を被った行政の長である。
災害をよく知っているブルーシートのメンバーだから、分かってもらえるだろうが……と前置きして、町長は重々しく口を動かした。
「災害は防げない。防げないから災害なんです。
その事を踏まえた対策でなければ意味がないんですよ」
今後の全国の災害対策にとっても、大きな課題を突きつける言葉であった。
つづく
代表 角田四郎
- 台風10号豪雨災害被災地訪問記〔5〕
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2017.06.08 Thursday
さて、読者は岩泉豪雨災害をどの程度覚えておられるのだろうか?
あまた発生する日本の豪雨災害であるから、その一つ一つをつぶさに覚えて要られないのも当然である。
だいたい、日本の台風で東北北部にダイレクトに上陸する何てこと自体、おそらく観測史上初の特異な例である。
それだけに、岩手県民にとっては一般の人も行政も、台風や台風がもたらす風雨の恐ろしさや、被害発生の速さに対する認識が希薄であっただろう。
台風10号は日本の南岸、太平洋上を西に行ったり東に戻ったりと迷走を続け、8月31日太平洋から岩手県大槌辺りに上陸した。観測史上最長の長生き台風である。
岩泉にとって最悪の環境がここにあった。台風の進行方向右前方は最も雨雲が発達している。
岩泉はまさにその位置にあったのだ。
未体験の豪雨が台風接近前から降り注ぐこととなった。
元来、岩泉町は本州最大面積を誇る町である。とは言え、町の総面積のなんと90%以上を山間部が占めている。訪れる多くの人はその険しさ深さに、まず圧倒されるのである。
かつては林業で栄えた町であり、今も松茸生産高は日本一を誇っている山と森林の町である。
その上に、険しい山から涌き出る水は、ほぼ小本川と言う川に集中しているのだ。
山々に降り注いだ台風の豪雨は、険しい渓谷から、小本川に集まってきたことになる。
経験した事のない豪雨が岩泉の広い山々に間断なく降り注いだ。こうなると広い町内の深い山々の、一体どこでどれ程の雨が降っているのか、想像も出来なかったのが現実である。とりあえず警報は出してみても、避難訓練指示や避難勧告のレベルを、行政が細かな地域を別けて発令する判断材料などなかったのであろう。
悲劇はその最中にも進行していた。
この険しい山地から、災害中最大の凶器となるものが荒れ狂う激流に投入され続けたのだ。
発生当初の報道から、私は岩泉災害の特異性を予測していた。
土砂災害や、土石流災害とは異なる山間部特有の「流木災害」とでも呼ぶべき現象が生活圏を襲ったのである。
つまり、険しい山間部に降った豪雨は、朽ちて放置された倒木や間伐材、丸太、雨で土を削られ新たに倒れた木々、それらを一気に谷底の流れに落としたのであろう。
川の狭い箇所や急な曲がり角で流木は絡み合い、一種のダムのように積み上がって流れを塞き止める。
こうして大小無数の流木ダムが河川に形成され、更なる雨量の増加に耐えきれなくなったダムは崩壊し、下流に堰を切って流れ出し、下流のダムを破壊する。
流木ダムのドミノ倒し現象が起こったのだと想定した。
映像で見る限り、被災地は流木で埋め尽くされていた。流木こそが最大の凶器となって発生した災害だったのだ。
この当初に抱いた私の災害予測は半年後になって、岩手大学災害研究班によってほぼ同様のメカニズムが解明された。
この特異な災害発生原因こそが、岩泉行政の避難指示発令を遅れせしめた原因であり、今後、日本のどこの山岳地でも起こりうる災害だと警鐘を鳴らしておきたい。つづく
代表 角田四郎
- 台風10号豪雨災害被災地訪問記〔4〕
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2017.06.08 Thursday
こうして、ブルーシートの主要メンバーが岩泉の被災現場に足を踏み入れる事なく、田野畑メンバーだけが現地活動すると言う特異な方法での活動を開始した。
岩泉には民宿を経営するブルーシートのメンバーもいるが、彼の民宿が帰宅困難や自宅消失した役場職員の宿に指定され、その対応に奔走していたのでタオル配付は頼まず、その民宿利用者の使うタオルを届けた。それでも彼は時間を見つけ、報道機関より早い現地の被災状況をメールや写メで報告してくれていた。
前述の田野畑メンバーの釣り名人は、岩泉の太平洋岸の小本地区から入り小本から岩泉道の駅までの地区で活動していたが、岩泉役場の知り合いの水道局職員に遭遇、以来、彼から被災水道施設の復旧工事へのサポートを引き受ける事になった。
彼は本来田野畑村の水道事業を一手に引き受ける会社でその部所を束ねるのが仕事である。普段から無縁ではない岩泉町の危機に「ノー」は言えない立場でもある。
それ以上に、この依頼が有給の仕事であるのかボランティアなのかも定かではないにも関わらず彼はそこに身を投じたのである。
壊滅状態となっていた岩泉の水道復旧工事は想像を絶するものであっただろう。
外部からの支援が殆ど得られない中、連日の復旧工事に従事していた。
そんな中で、彼は送られてくるタオルを車に積み、工事現場の近くの、まだ支援の届かない被災者に配付していたのだ。
田野畑の若いママであるメンバー、佐々木さんは、
仮復旧工事が済んだばかりの山奥の集落、安家地区に開通日に入り、配付活動をした。彼女の活動は、このブログに記述があるので読んで戴きたい。
彼女は三人の子供がある介護施設職員でもある。その多忙な日々の休暇を全てタオル配付にあててくれた。
被災地の危険、鬼気迫る雰囲気、被災者の宙を見詰める拒否感、いきり立つ警備関係者…
そんな、未体験ゾーンに足を踏み入れて活動を始めるのは、ボランティア活動経験者でもからだが震える思いをする。それを一人でこなす27歳の女性に感服の思いであった。
もう一人の田野畑メンバーは熊打ち名人、と言っても彼は自然愛好家で夏には田野畑蛍ツアーを開催している。熊があまりにも民家に接近しているため、害獣駆除が行われているのだが、彼はその作業に行き過ぎがないようアドバイスしながら駆除活動をリードしている。
彼は行政にパイプがあり、岩泉役場や社協にタオルを届けていた。タオルは被災者に限定せず、災害復旧作業に係わる全ての方を対象に配付したので、自衛隊員にも喜んでくれたようだ。
私は、現地に向かわないまま、多くの現地の方々に活動の最も大変な部分を、押し付ける格好となってしまったのかもしれない。
このお礼は必ずいつか実現したい。また、タオル募集に即応して下さいました多くの人の善意に対し、私達が現地を知らない!では示しは付かないだろう。
それが東京メンバーの強い思いとして心にこびりついて離れなかった。つづく
代表 角田四郎
- 台風10号豪雨災害被災地訪問記〔3〕
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2017.06.08 Thursday
SNS等でタオル提供を拡散した効果も早々に表れた。
見ず知らずの善意ある方からも、大量のタオルが集まる。
報道される悲惨な現地情報に、何か手を差し伸べたいと考えていた人々に「タオルを送ろう」と言う呼び掛けは、自分にも出来る比較的手軽な支援だったのかも知れない。
音楽ユニット「山とケ」の二人が関わる栃木県足利市でのイベントには、軽自動車1台分のタオルが。関西のメンバーは知人のタオル印刷業者から新品タオルの段ボールがドッサリ届いた。
そんな中に「私は岩泉の出身です」と記したメモが入った段ボールがあった。
すぐその女性に連絡をとり「貴女の友人で現在岩泉に在住の方があれば、その人にもタオルの配付をお願いしてみて欲しい」と伝えてた。電気が回復しすぐに、その女性の友人と名乗る人から電話を頂いた。
何と、彼女は音楽が好きで、song of heavenのこともブルーシートの活動も、よくご存知だった。
「私は子育てと仕事があるので、少ししか手伝えませんが、叔母が介護員をしていて、災害から町の委託を受けて被災弱者の訪問介護をしています。是非、タオルが欲しいと言っていますので、有れば協力出来ると思います」と受けて下さることになった。その後、話を続けると、この女性と私達はさらに深い縁で結ばれていたことに気付いた。
「中里地区の地域コミュニティ‐センターは私が設計者なんです」
聞けば彼女は一級建築士で、岩泉の父親の会社にお勤めであった。
偶然、津波災害の時に我々が約100日もの機関、お世話になった建物の設計者に、この豪雨災害活動で巡り会えたのだ。タオルが縁である。
田野畑村に転送したタオルが現地メンバー(このブログにも何度かレポートを挙げてくれた佐々木さん)によって、岩泉の被災地に届けられた。現地では、タオルの需要はタイムリーだったのか、たちまち無くなる状態であった。
受けとる被災者は口々に「あんた、どっから来たの?」と驚いたそうだ。その筈である。まだ、行政からの支援物資も殆ど届かない時期に、しかも被災者さえ田野畑ルートを殆ど知らない時期に、若いママが軽四輪車で被災地を回っていたのだから…!
定かではないが、後に自衛隊の救援隊が岩泉の中心地に到達したのは、このルートが解明したからだと聴いた。
たかがタオル、されど、あの全国から届けられたタオルたちは、一体どれだけの愛や温もりを繋いだのだろうか?つづく
代表 角田四郎
- 台風10号豪雨災害被災地訪問記〔2〕
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2017.06.07 Wednesdayいろいろ考える内に日本海で起きた「ナホトカ号重油流出事故(19972.1.2)」の活動を思い出した。
当時、被災者はもちろん、重油回収作業のボランティアも、おびただしい数のタオルを必要としていた。
今回の豪雨被災地はどうだろうか?
報道で見る限りでも、現地には電気も水道もない。
しかも、泥だらけの世界である。
何をするにも泥ふきから始めなければならず、汚れたタオルを洗う水もないだろう。もちろん洗濯機は使えない。
そんな環境でしのいでいる被災者を思い浮かべた。
よし、いち早くタオルを届けよう!
タオルくらいなら、今の我々にも揃えられるだろう。
ということで、私達ブルー・シートメンバーは一斉にタオル集めに奔走した。
ミュージシャンのメンバーは自分のライブでお客様に問いかけた。
彼らの心意気に賛同したライブハウスまで独自にタオル集めを訴えてくれる。
私の住む山梨でも、若い子育て中のママの会が奔走した。
わが家はたちまちタオルハウスと化した。
一方で、報道やインターネットで見ても、被災地岩泉町は依然として孤立状態であり、ヘリコプター以外の現地到達は皆無であった。
陸からの到達を計画している自衛隊ですら、徒歩による現地入りを模索中という状況だった。
そんな八方塞がりの最中、田野畑村のメンバーから「うちの長女が岩泉の職場(介護施設)から山道を探して帰って来ました」と連絡が入った。
この田野畑村のメンバーは渓流釣りの名人でもある。
娘さんも小さい頃には父に同行させられて深い山に分け行った経験が豊富だったのだ。
土地の人にしか分からない山道を探り当てての帰宅であった。
娘の無事を知らせる一通のメールに私は飛び付いた。 その道を逆走すれば、車で岩泉に入れる。
宅配の運送会社に訪ねると『岩泉への荷物受付はストップしていますが田野畑村なら受け付けます』と答えが帰って来た。
さっそく、田野畑村のブルー・シートのメンバーに、このルートでの活動を打診、三人のメンバーから「やってみましょう」と前向きな返答が帰って来た。
何という繋がりだろうか。
音楽祭の手伝いやお客様としてあしけく顔を出してくれた、ただそれだけの繋がりである。
被災地は危険が伴う、感情も制御しにくい過酷な現場である。
しかも、メンバーの一人は東日本大震災当日、津波災害をまともに受け、家も土地も失った被災者である。 それでも、彼らは岩泉に向かう。
私達はこうして東京や山梨に集めたタオルを、隣村田野畑に発送を開始したのである。
つづく